ブルガリアから電車でルーマニアの国境に入った。
ルーマニアは5日間の滞在だった。
まずは、首都のブカレストへ。
ルーマニアのイメージは、
たけしのギャグの「コマネチ!」
そして
1989年のルーマニア革命、チャウシェスク大統領の絞首刑だ。
ちなみに、ルーマニアと国境を接する国は、時計反対周りで以下のようになる。
ウクライナ、ハンガリー、セルビア、ブルガリ、モルドバ。改めて見るとすごい。
首都のブカレストは、「バルカンの小パリ」と称されるだけあって、パリのような美しい都市だった。
ざっとまる一日、いっぱい歩いて、たくさんのことを感じた。
1、この国はスペイン、イタリア、フランスなどのラテンを受け継いでいるので、フランス語が随分役立った。そして、人がラテン気質でブルガリアよりもずっと明るい。
2. 市場は、とても賑わっている。そして、その市場にも、町にも警察がたくさんいる。
3.可愛い頭巾とエプロンを着たおばさん、おばあさんをたくさんみかけた。
4.パン屋がとにかく多く、並んで買う人をあちこちでみた。
5.ブルガリア同様、wifi freeなのでipodを持っていると助かる。(スマホがまだ普及していない2011年の話し。)
この当時、日本は、公共のwifi freeは、ほぼないに等しい状況だった。
ちなみに、2日前に、Steve Jobs氏が亡くなり、ルーマニアでもトップニュースになっていた。
6.ブカレストのみだけど、床屋さん、美容院がとても多い。
7.地震が最近あったかと思うほどあちこちで修復工事をしていた。ちなみに地震はあるらしい。
8.美男美女がとても多い。
9.喫煙者が多い。特に女性。
今回の旅行で四回目になる結婚式に遭遇したのだが、その際も花嫁さんが、ウェディングドレス着て、タバコを思いっきり美味しそうに吸っていてビックリ!
10.教会は、相変わらずお祈りの人でいっぱい。
11. ブルガリアに比べて、ブカレストは、物凄い物価が高い。
12. 地下鉄は、とても便利。色々な人間模様が見れて、面白かった。
13. ブルガリアを同様、JCBカードが使えるマークがいっぱい。(私は、昔、JCBカードを持っていたのだが、使えない国があまりにも多かったので、解約してしまった経験がある。)
この国を語るのに欠かせないのが、ルーマニア革命。
1989年12月、独裁者、チャウシェスク大統領がヘリコプターで逃げて、公開死刑になったニュースは、その当時高校生だった私には、衝撃だった。
その時の東大出身の、地理の加藤先生は、もう定年間近のおじいさん先生だった。
加藤先生は、いつも
「国立大学に行きなさい。学費がかからなくて、親孝行ができる。勉強をたくさんしなさい。」
というのが口癖だった。
声が大きくないので、眠くなりそうなのだが、お話しが面白くて、私は、この授業が好きだった。
1989年は、ちょうど東欧革命があり、11月には、ベルリンの壁が崩壊した。
その当時、ソ連のゴルバチョフ書記長が、それまでなされなかった、情報公開、「グラスノスチ」を推奨し、国の再構築を促す、「ペレストロイカ」を行った。
加藤先生は、
「これは、歴史において、物凄い大事件にあたることであり、これからヨーロッパは大きく変わる。
よーく勉強しておきなさい。そして親孝行しなさい。」
と言っていた。
チャウシェスクは、1965年の47歳の時に、第一書記に就任した。
就任当初は、国民に愛されていたが、次第に独裁色を濃くした。
1980年には、秘密警察を置き、国民は、恐怖政治に怯えて暮らすようになった。
チャウシェスクは、最初は国民の為に生きると志していた。
しかし、彼も独裁者特有の私利私欲に走ってしまった。
その象徴的な建物が、「国民の館」だ。↓
日本円にして約1500億円を投じて作らせたという巨大な宮殿。
その大きさは、アメリカの国防総省ペンタゴンに次ぐ規模だという。
国民が飢餓同然だったのに、贅沢三昧だったその宮殿を目の当たりにして、むなしい気持ちになった。
でも独裁者は、最終的には、破滅する。
国内のクーデターが起き、結局倒れる運命なのだ。
ただ、そこに至るまでは、膨大な時間を要し、多くの一般市民が犠牲になる。
ルーマニア革命は、国営テレビ局が重要な舞台となった。
革命派がテレビ局を占拠し、全国の人々に現状を伝えて、国民がようやく立ち上がった。
舞台となったテレビ局の入口横に犠牲者を悼む慰霊碑が建てられている。
そっと手を合わせた。
私が今回、旅をした、2011年10月初旬、季節外れの熱波がこの辺りの上空を覆った。
夏の陽気が続いて、バカンス気分が強まる!
さて、ブルガリアに続き、ルーマニア料理もおいしい。
これについては、また次回、お話しよう。
ではまた!
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