先日、大相撲5月場所の観戦に、国技館に行ってきた。
大相撲観戦は、人生2回目。
33歳になった、1月場所に、自分の誕生日祝いに国技館に出向いたのが人生初めてだった。
2007年初場所。つまり、今から、18年前だ。
当時、私は、YAHOOブログを書いていた。
その時の記事が残っていたので、それを元に、まず本日は、2007年の初めての大相撲観戦の話しをしたいと思う。
33歳というのは、私にとって、ちょっと特別な数字だった。
というのも、私がバイトをしていた、ゲイの上司が、33歳になった時の思い出深い話しがあるからだ。

その当時、23歳だった私が「どんな33歳にしたいですか?」と聞いた際に、
「サンサンと輝く33歳にしますぅーーーーーー」
と高らかに目の前で宣言され、びっくりを越して、すごいなーって率直に思い、自分にとっては、とてもインパクトのある出来事があった。
私も33歳になったらそんな発言ができるのかな?と思った。
そして、10年後、とうとうその日を迎えようとしていた。
しかし、その時の私は、ニュージーランドから帰国して、なかなか、日本の社会に馴染めず、仕事が見つかっても、続かず、就活中という、もやもや状態だった。
「これは、いかん!サンサンと輝かさねば!」と大相撲観戦に行こうと急に思い立ち、立ち上がったわけだ。
(サンサンと輝く宣言を目の前でされた、その時のストーリー↓)
初めての国技館は、色とりどりののろしが立ち、賑やかで両国は華やいでいた。
生憎当日券も含めチケットは、完売。
翌日の月曜日の椅子席なら残りわずかだが、取れそうだったので、国技館の窓口にて、チケットを購入した。
するとちょうど有名どころの力士が次々と国技館に入ってくる時間帯で、国技館の出入り口は、さらに賑やかになっていた。
今日は、明日の大相撲観戦の下見としよう!と、気持ちを切り替え、同時に私の追っかけ魂が燃え上がる。
私は、祖父が大相撲の大ファンだった。
おじいちゃんは、細くて、ひょろっとしているので、そんな体系のおじいちゃんが、大きな力士を見て、一喜一憂する姿が、なんだか、面白いなって子供心ながら思っていた。
そんな影響もあり、小さい頃から、相撲を見ていた。
私は、千代の富士の大大ファンだった。
千代の富士の引退会見で、魂のこもった「体力の限界」と振り絞った声は、今でも忘れられない。
あの時代のスターは、時が経ち、すっかり親方クラス。

千代の富士は、その日は見られなかったが、北の湖、朝潮、大乃国(現:芝田山親方)、寺尾が国技館に来るタイミングを生で見ることができ、興奮。
力士の出待ちでは、多くの人がカメラを構えて待っている。
2007年は、まだスマホは、なかった。
そこに、相撲オタクのおじさんが立っていて、色々、小ネタを披露してくれる。
タクシーに乗った力士がやってくると遠くからでも、
「あの顔の大きさは、イワキヤマだな」
とか、
「あの車を運転しているのは、○○力士の奥さんだ」
などなど、物凄い情報を皆にさりげなく、披露するので、一同、耳をすまして聞く。
そして、その当時、お茶漬けのCMでも有名な高見盛が入場してきた。

歓声があがる。さすが人気者は違う!
力士は思ったほど大きくなく、それこそ、ニュージー―ランドのフラットメイトのコロンと変わらないくらい。
関取は弟子が荷物持ちなどしていて、大変だなと思ったものの、タクシーの支払いで、ルイヴィトンの財布からお金を出していたので、あれ?結構お金持ちなのかもなんて思ってしまった。

そんなわけで、20人ほどの力士を観察し、明日の観戦では、彼らを応援しようとメモをし、家路につき、サンサンと輝いてほしいなと私の33歳が幕開けしたのだった。
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久しぶりにこの昔のブログを読んで、記憶が一気に蘇った。
そして忘れていることもたくさんあり、やっぱり記録するってすっごい大事なことだって思った。
というのも、そもそも、私は、「40歳の誕生日祝い」に相撲観戦に行っているとまず、大きく、勘違いしていたのだ。
でもふと、相撲観戦後、両親と、どじょう料理を食べに行った事を思い出した。
40歳の時は、母親はもう他界していたことに気が付き、記憶を手繰りよせる為に、昔のブログに辿り着いたわけだ。
そして、18年も経つと、両親も含め、推しの千代の富士、あの時に見ることができた、寺尾、北の湖、朝潮も亡くなっている。
時の流れの速さを痛感した。
そんなわけで、次回は、そんな18年前の私の初めての大相撲観戦の話しを紹介し、3回目にようやく、先日行ってきた、最新の大相撲観戦の話しに続けたいと思う。
どすこい!!
<思い出ブログ>
力士のサイズが、フラットメイトのコロンと変わらなかったと思ったが、コロンは、とても気が小さいから、力士にはなれないと笑えるストーリー↓