15回目の母の命日を迎えて

エッセイ

母が亡くなって、今年で15年が過ぎた。

母は、癌だった。

最初に癌が分かった時は、私は、フランスから帰ってきたばかりの29歳だった。

フランスでの1年のホームステイで、改めて、家族って大事で、特に両親ともっと大事にしないとなーなんて身をもって体験して日本に戻ってきていた。

そんな母は、クリスマス前に癌が分かり、父や祖母、叔母達には、こっそり報告していたようだったが、私と弟には、言えずにいた。

年が明け、私の誕生日の前日は、土曜日だった。

「お散歩に行ってくる」と母に声をかけたら、突然、「私、癌なの」と言われた。

何のことを言っているのか、すぐに理解が出来なかった。

母は、いつ言おうかと、悩んでいたそうだ。手術は2月。

クリスマス、お正月、楽しい行事に水を差したくないと思ったらしい。

日に日に手術日が近づく。

そんな中、私の30歳の誕生日が翌日という日。

誕生日に悲しませたくないと思った母。結局、29歳の最後の日に告白された次第だ。

前日に聞いたから、どっちにしろ、誕生日は、悲しいわい!なんて一人突っ込みした。

私はその頃、日本の生活に馴染めず、やっぱり海外に行きたいと、JTB ニュージーランドの仕事に応募する為に応募書類を準備していた。

この求人は、応募資格、30歳までで、毎年、同じ頃に求人が出ていた。

きっとビザの関係で毎年、募集があるともくろんでいた。

なので、私は、30歳ギリギリの時まで、チャンスはある!と信じていて、それまで応募せずにいた。

その年も、予想通り募集が出た。

最初で最後のチャレンジ。

応募書類を送付したばかりだった。

この仕事の任期は、2年。

癌になった母を置いていくのは、とても無理だと思った。

そんな中、私は、採用通知を手にした。

母に全てを話したところ、「自分の病気の為に夢を諦めてもらいたくない。いざとなったら、飛行機で帰ってくればいいんだから。でも心配しないで。私はすぐには、死なないから」と言われた。

死なないと言われたとはいえ、母の口から「死」という言葉が出て、私はどうしていいのかわからず、母の癌を聞いた時と同様、ぽろぽろ涙が流れた。

結局、ニュージーランドで、私は2年間、憧れの仕事をすることができ、素晴らしい日々を過ごすことができた。

32歳で日本に戻った。

母の体調は、よかったり悪かったりの繰り返しだったが、母と暮らす時間は、とても楽しかった。

でも、私は日本で、なかなかいい仕事が見つからなかった。

そんな中、また、見つけてしまったのが、オーストラリアベースのCAの求人だった。

CAこそ、私にとって夢の仕事だった。

既に32歳になっていたので、とっくに諦めていた。

しかし、なんとなんと、採用通知が来たのである。

でもやっぱり、母の事が心配で、行くべきか否か、悩みに悩んだ。

1番人生で悩んだと思う。↓こちらがその時の気持ち

こうして、CAになって、両親もベトナム旅行に連れて行くことが出来た。

癌になると、5年の壁というのがあるらしい。

治療をして、5年で再発しなければ、克服できたかもという目安になるという。

その5年を目の前にしたある日、今度は、別の癌が見つかってしまった。

再発ではないまた、新しい癌だった。

オーストラリアでのCAの仕事は、お休みががっつり取れる。

母の手術に合わせて、休みを取り、父と一緒に、付き添った。

手術後、主治医の先生に余命半年と告知された。

私は、会社に事情を話し、できるだけ、日本線に飛ばしてもらった。

1泊がほとんどだったが、実家に帰り、母に会いに行った。

母は、相変わらず、よかったり、悪かったりだったが、私が帰ってくるのを待って、いつも手作り料理を用意してくれた。

母は、延命治療はしないと決めていて、ホスピスで最期を迎えたいと手続きをしていた。

ある日、またフライト後、家に帰ったら、ホスピスに数日後に行く予定と言われた。

いよいよ来たかと身が引き締まる思いがした。

日本線のリクエストをしていたとはいえ、他の路線もロスターに入っていた。

私の心配事は、母の最期を迎える日に立ち会えるかということだった。

ただ、この仕事をしている以上、難しいかもとは覚悟もしていた。

シドニーから母の病院まで、離陸してから、10時間はかかる。

危篤と言われて、連絡がきて、どんなに頑張っても限界がある。

落ち着かない日々が続いた。

元々、その数週間後に2週間のお休みを取る予定でいた。

そんな中、フライトスケジュールが変更になった。

休みを前倒して、日本に帰った方がいいかもと急に思い立った。

成田に着陸して、いつもは、まっすぐ実家に帰っていたが、この日の行き先が、ホスピスというのが、悲しかった。

ホスピスにいる母の顔を見て、私は、これは、もう長くないかもって思った。

とぼとぼ実家に帰った。父は仕事でいなかった。

1人でますます心細くなった。

そうしていたら、病院から電話が来た。

「今晩が山になると思うので、ご家族の皆様をお呼び下さい」というものだった。

1番、遠くに住んでいた私が、集合の号令をかけるという結果に。

父と弟に連絡した。

母はもう意識があまりなかった。

でも、看護師さんが、「耳は聞こえているから、話しかけて下さい」と言った。

3人で「よく頑張ったね。ありがとう」と声をかけた。

やっぱり聞こえたらしく、涙を流していた。

一晩、そんなことが続き、朝に静かに息を引き取った。

とーーーっても静かーーーに、穏やかーーに旅立った。

朝日が眩しかった。

あの日から15年。

私は、毎日、母の事を想っている。

美味しいものを食べた時、旅行をしている時、楽しい時、母に何て伝えようかなー、

悩んでいたり、大きなニュースがある時、母なら何ていうかなーって言う感じだ。

母はユニークで、型にはまらない考えの人だった。

料理上手で家庭的。人づきあいは、苦手で、雨の日、家で静かにするのが大好きな人だった。

今でいう、「陰キャ」であることを、堂々と認めていた。

母の癌が最初にわかったのは、私が29歳、母は55歳。私が35歳になり、母は、61歳で亡くなった。

15年経ち、私はその母の年齢にぐっと近くなった。

改めて、自分の時間は有限ということを痛感する。

母に会った事がない、姪っ子、甥っ子に、母の愛情を更に乗せて、悔いなく、私も生きていくのが親孝行なのかなと思う。

雨の好きな母は、お葬式の時、土砂降りの雨を見事に降らせた。

母の命日は、不思議と雨の事が多い。今年もしっかり雨が降った。

本当に不思議だ。

15年という節目を迎えたので、ちょっと今日は、かなりパーソナルな事を書いてみた。

このブログのmamacreamsodaというのも母の思い出から取った。

母が生きていたら、一番の読者だっただろうなと思う。

会いたいなーなんて叶わない願いを思いながら、今日はおしまい。

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