33歳の時に、客室乗務員になった。
私は、32歳の時に、2年間働いたニュージーランドから帰国して、仕事を探していたのだが、苦戦していた。
元々は、大好きな母が病気になり、一緒にいたいと理由で日本に戻ったのだが、日本で就活しても自分に合う仕事に出会えず、半年近くそれが続き、ちょっと弱っていた。
母にも「あなたは、日本に帰ってくると、死んだ目になる。外国に行くとイキイキするから、私の事を気にしないで、好きな事をやってほしい」と言われる始末だ。
そんなある日、Japan Timesで客室乗務員の募集を見つけた。
この仕事は、憧れの仕事だったが、そもそも、自分には無理だと思っていた。
私は、就職氷河期の超ど真ん中世代。そもそも募集もほぼなかった時代だった。
たまーーに出る、外資系客室乗務員の狭き門に応募するが、ほとんど書類落ち。面接も途中敗退が当たり前だった。
今回の募集は、私がくすぶっている時にやってきた。
オーストラリアのLCC(Low Cost Carrier: 格安航空)が日本就航にあたり、日本人クルー1期生募集。シドニーベース。雇用期間3年。
ちなみにLCCとは?
”効率的な運営により低価格の運賃で運航サービスを提供する航空会社を指す。米国の航空自由化を契機に登場し、世界的に航空規制緩和が進む中で各地に数多く誕生してきた。”
今では、日本でも当たり前になったが、2007年当時は、まだ日本では、あまり知っている人はいなかった。
合格したら、大好きなオーストラリアで国際線スッチーになれるかもしれない。
なんといっても魅力的なのは、花の1期生ということ。
先輩のしがらみもなく、1から作り上げていく感じがしてワクワクが止まらなくなった。
応募条件もクリアしている、とにもかくにもまずは、応募。
1次試験は、集団面接、2次は、グループワークと個人面接だった。
とにかくがむしゃらだった。そして、合格してしまった。偶然一緒に受けた友人は、敗退していた。
これは、きっとチャンスだ。
でも、採用通知を受け取ったら、色々悩み始めた。
そもそも、この会社は、大丈夫なのか?
とか
私は、事務職がしたいとニュージーランドでOLをしたのに、この仕事をして、また日本に戻った時に、事務職として復帰できるか?大丈夫なのだろうか?
大丈夫?という疑念が止まらなくなった。
最初の「大丈夫?」のこの会社については、オージー(オーストラリア人)の友達が、私の採用された親会社で乗務員をしていた聞くことで解決した。彼によると、オーストラリアでも今、LCCは人気。だから、またオーストラリアに来なよ!と言われた。
私の両親は、これまで私の進路については、反対をすることなく、見守ってこれまでいてくれた。
しかしながら、
今回、私が、採用されたのに、迷いがあることがとても意外だったようだ。
彼らの時代は、この仕事を「スチュワーデス」と呼んでいた世代だ。
今よりももっともっと憧れが高い時代だ。
父は、普段、ほとんど話さない人なのだが、今回ばかりは、「スチュワァーデスは、いい。やるべきだ」と入れ歯をカクカクさせながら、一生懸命慣れない言葉を発して、後押しする。
母も「いいチャンスだよ。案ずるより産むが易し。ひとまずやってみればいいじゃない。ダメだったら帰ってくればいいだけだし」という。
私は、両親にLCCの「スチュワーデス」というものは、両親が思い描いているような、華やかなものではなく、機内サービスの販売もあるから、どっちかといえば、新幹線の売り子みたいなイメージを描いたほうがいいと思う、と念を押した。(売り子をディスっているのではない)
そして、最大の、自分自身への、大丈夫?は、
年齢33歳。
スッチーデビューには、ちょっと年もいっている気がした。
でも、ふと思い出したことがあった。
それは、添乗員をしながら、銀座のデパ地下の輸入食品売り場でバイトをした時の事だ。
その時、お世話になったのが、ゲイの店長、私達は「チーフ」と読んでいた。
私は、今は、ゲイの友達がとても多い生活になっているのだが、チーフが私の初めてのゲイの知り合いだった。
ある日、彼が、33歳の誕生日を迎えた。私は、26歳だった。「33歳、オトナですね。チーフの抱負は何ですか?」といったら、
「やだーー、そうねー。サンサンと輝く33歳ですよーー」とレジを打ちながら、雄叫んでた。
うじうじ考えていた、まさにその時に、このチーフの話しがパッと頭に浮かんだ。
おーーー!これは、天の声かも!そうだ、私もサンサンと輝く、33歳、スッチーデビューやってみようかな?とその後、悩みに悩んでから決めた。
健康診断や、ビザの発給の為に、無犯罪証明書と警視庁に取りに行ったり、ワクチンを打ったりで、採用通知をもらってから出発までの約3か月間は、とにかくバタバタだった。
ところで、私はそれまで、ホームシックというものにかかったことが全くなかった。
それよりも、逆ホームシックみたいな、つまり、日本に戻ると海外が恋しく、それに苦しんだ。
しかし、親も年を取ってきて、ましてや、母が大病を抱えていた33歳の私は、日本に定住しようと本気で思い、だからこそ、ニュージーランドから帰ってきた。
でもでも、なんだかまた結局海外にいくことになった。選んだのは私だ。
大丈夫?の一番大きなこの点に関して、結局、心の整理がうまくいかず、東京駅まで、見送りしてくれた母親と別れた後、涙が止まらなかった。
オーストラリアまでの夜間飛行中、私は、実に、9時間近く、ずーーーーーーっと涙が止まらず、目を真っ赤に晴らしてシドニー空港に降り立ったのであった。
このぐらぐらのまとまらない気持ちで、到着後の訓練に入るのであるが、それは、また次回にお話しするとしよう。
スチュワーデス物語、つづく。
本日もご搭乗いただきまして、誠にありがとうございました。
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コメント
書くのも楽しそうね!
そう!伝わった?楽しく書いてるよ。ちなみに、私がNZに行くとき、母の病気がわかり、行くか迷っていたら,アナタが「今は、海外っていっても飛行機乗ってすぐ帰ってこれるんだから、もし大変なことになったら戻ればいいんだから、せっかくならNZに行った方がいい」といってくれたのを今でもとっても覚えています。いつもありがとうーーー!これからもよろしくね!
本当、ご縁は大事です!その時掴んだチャンスは先のことも心配だけど、とにかくやってみる!ですね!あの時その決断をしたから私はあなたに会えました!戦友よ!!笑。
なんかガッツでた!そうだねーー、あの時にチャレンジしてよかったなーー。
今日から、訓練編を更新します。これが、また色々思い出して、数回にわたってのシリーズになりそう!お楽しみーーー!
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