【女子海外1人旅】ポーランド 3回シリーズ その1 古都クラクフと負の遺産アウシュビッツ

海外旅行/ヨーロッパ

2008年10月にポーランドに行った。

ポーランドの歴史は侵略と戦争の繰り返しだ。

その時代時代の、大国に狙われ、国の名前も大きさも変わる。

私は、世界史の教科書を持ってポーランドに行った。

長い移動時間に歴史を改めて確認したのだが、ポーランドにスポットライトがあたるのは、「ポーランド分割」と「第2次世界大戦」くらいだ。

1939年、ドイツが不可侵条約を破りポーランドを攻撃したことによって第2次世界大戦が始まった。

ポーランドのほとんどの地域はこの戦争によって破壊された。

これって、今のロシアのウクライナ侵攻と同じだ。

その中、古都Krakowクラクフ(上記の写真の地図では、Cracowと記載)は奇跡的に破壊を免れた都市

日本でいうと京都のようなものだと言われた

私のポーランド旅行は、この地から始めた。

チェコやドイツを思い出させる町並みだ。

ちょうど黄葉、紅葉のベストシーズン。

特に黄葉が素晴らしく、黄金色に輝いていた。

クラクフは、その昔、ポーランド王国の首都だった。

それは、1386年から1572年。この時代のものを今、目にすることができる。

ここが第2次世界大戦の戦禍を免れて本当によかった。

美しい中世のヨーロッパが残っている。

警察がうろうろしているので、治安が守られている印象。
お店のウインドーなどもかわいいのがいっぱい。
中央広場にある、織物取引所の中。今は、お土産屋さんになっている。



パンが美味しく、パン屋やカフェがたくさんある。
16世紀に建てられたヴァヴェル城王宮には、子供達が見学にきていた。

翌日は、ポーランドに来た大きな目的でもあるアウシュビッツに行った。

クラクフからバスで1時間半ほどの距離にある。

入口。「働けば自由になる」というむなしいスローガン。Bが反対になっているのは、この看板を作らされた時の収容者のせめてもの抵抗だったとのこと。

殺人工場というべき人類の負の遺産。

多くのユダヤ人、またジプシーと呼ばれる人々や黒人などがここに送りこまれ、亡くなっていった。

死刑囚が銃殺された「死の壁」。花がたくさん手向けられていた。

28の民族、150万人とも言われる人々がこの地にやってきて殺された。

あまりにも膨大な数過ぎて、ピンとこない。

今も張られている、鉄線。なんと当時220ボルトの超高圧鉄線が張り巡られていたという。
その鉄線が危ないと警告する看板。収容所のあまりにも酷い環境に耐えられなかった人は、鉄線に身を投じ自殺した。

ある収容場にて遺品となったスーツ、ケース、くし、靴などの日用品が山積みに展示されていた。

その膨大な数に驚いたところ、これだけでも8万人分でしかないとわかった。

150万人、、ぞっとした。

遺体が焼かれた焼却炉。黒のすすが生々しい。

また殺された後に切られた髪の毛も生々しかった。

彼らの叫び声が聞こえてきそうだった。

ガス室や、飢餓室、立ったまま狭い空間に大人数放り込まれ殺される部屋もあった。

バラックと呼ばれる収容所
バラックの中のトイレ。疲れて、穴に落ちてしまう人もいたという。
トイレの下の溝に汚物が流れる。

ナチスはどうしてそこまで走ってしまったのか?

バラックが無数に並んでいる。
3段ベットがぎっしり。もちろん1つのベットに多くの人が押し込まれる。もはやベットではない。
ベットの下は、汚物を流す溝。
侵入口から列車で入れば、出口は遺体焼却後、煙になって空へ行くだけ。。
死のレールには、弔うろうそくがあった。

戦争はいけないということを、こういうのを見ると思うのに、どうして今も世界中で戦争が起きているのか、、

解決も答えも出ないことを考える。

終戦後、この悲惨な事実を隠す為に、ドイツ兵が破壊した。

自分は今こうして自由に旅ができる事に感謝しなければならないと思う。

↑これは、2008年の10月に思ったことだ。

14年後、またその思いを強くしなくてはならない現実がまたある。

色々なことを思いながら、ポーランド旅行が始まった。

つづく

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